近年、AI技術の発展により、大学の卒業論文やレポートにAI(特にChatGPTなどの生成AI)が使われるケースが増えてきました。その結果、「AIGC検出ツール(AI Generated Content Detection)」を導入し、論文内のAI生成率が一定基準(例:15〜20%)を超えると卒業できない、という大学も登場しています。四川大学の通知がその一例です。
私はAI活用を積極的に支持している立場ですが、今回の「AIでAIを判定する」この仕組みには、正直なところ強い違和感を覚えています。本当に守るべき学生たちが、この制度によって逆に傷つけられているからです。
AIにAIらしいかどうかを判定させ、その結果を人間の学生に適用する。この構図、冷静に考えるとかなり皮肉ではないでしょうか。
「読みやすい文章=AIっぽい」、「誤字脱字がある=人間らしい」などという基準は、果たして妥当でしょうか?人間の表現力はもっと多様で、AIと重なる部分があるのは当然です。これを理由に「AI生成認定」されてしまうのは、あまりに乱暴です。
① パープレキシティとエントロピー分析
「自然すぎる文章」はAI生成の可能性が高いと判断される仕組みです。つまり、上手に書けた文章ほどAIと疑われるのです。まるで「話し方がスムーズだと暗記してる」「つっかえながら話すと本音っぽい」といった、根拠の薄い印象論と似ています。
② 機械学習ベースの分類モデル
この方法では、過去のAIテキストに似ていればAI生成と判定されますが、判定基準は「ブラックボックス化」されており、ユーザー側には不透明です。たとえるなら「見た目があの人に似てるから怪しい」と言っているようなもの。
③ 文体・構文パターン分析
文の長さや文末表現のパターンなどを基にAI判定を行う仕組み。確かに統計的手法ですが、文体の個性が否定されがち。実際、中国の古典文学「滕王閣序」はAI生成率74%と判定されたことも。これは制度設計そのものの見直しを促すべき例です。
現在、中国製の高性能AI「DeepSeek」は、100万トークンの処理にたった8元程度しかかかりません。しかし、例えば中国の知网(CNKI)では、わずか1000文字のチェックに2元の費用がかかることも。誰がこの差額を得ているのか?
教育機関はこうしたツールの仕組みや限界を本当に理解しているのでしょうか?単に「AIGC率が高いからダメ」と盲信してはいないでしょうか?
アメリカのある大学では、学生自身にAIをトレーニングさせ、そのAIを使って試験や論文に挑むという教育方針を取り入れています。これはAIリテラシーの育成と、創造力の強化を同時に実現する素晴らしい方法です。
将来的には、AIやプロンプト設計が「国語」や「数学」と並ぶ必修科目になるかもしれません。学生自身がAIをうまく使いこなす力を育てるべきなのです。
今、人気のAIプラットフォーム「XXAI」では、GPT-4o、Claude 3.7、Gemini 2.5、Perplexityといった世界の主要モデルを統合し、月額たった9.9ドルという手頃な価格で提供しています。
論文執筆、翻訳、企画立案など、幅広い用途に対応しながら、個人ユーザーでも使いやすい設計が魅力。学生や若手クリエイターの強い味方となってくれるはずです。
AIは、敵ではなく味方です。正しく使えば、教育も創造も、より豊かなものになるはずです。
技術の進歩を恐れて規制ばかりを強めるのではなく、その力を最大限に活用するための「教育・制度設計」が、これからの社会には求められています。